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「ウスリー草原のヤポンスキー」

2013年11月28日


ウスリー草原のヤポンスキー文芸社(2000年)

今年は学徒出陣70周年だそうだ。
昭和18年秋、ついに始まった学生の戦場派兵。所謂学徒動員である。5万とも10万とも言われるが出陣学徒と戦死者についての定かな記録は残っていないらしく、NHKの調査に対して、今後も調査は不可能として対応しない大学が50%とか。

そんなことからたどり着いたのがこの一冊。
ウスリー草原のヤポンスキー
早速Amazonから新品を取り寄せたが、最近本格稼働した小田原FCからではなかった。

さて、この本は、昭和17年4月に法政大学予科に入学し、まだ物心ともにゆとりがあり、まだまだ田んぼもあった東京での当時の下宿生活の様子から始まるが、18年1月のニューギニア全滅、悲惨なガダルカナル撤退から戦況は急速に悪化していった。
そんな18年秋に始まった学徒動員であるが、当時の徴兵適齢は20歳からであった。そして19年には、「戦時繰り上げ」と称して半年早く予科から学部へと進学することができたそうだ。その一方で、前年(18年)12月には、既に徴兵の適格年齢も19歳に下げられていたと・・・。

そんな状況が次第に見えてきた19年の晩春、筆者は友と箱根の十国峠に旅し、「縹渺(ひょうびょう)とした十国の山」と表する山の眺めは、
暖かく陽のなかで低い笹で覆われ、緩やかな曲線の稜線がつづく綺麗な山々を見たのか、陽がないときは、笹だけを押し付ける冷たい風が吹き抜ける荒涼とした景色だったのか・・・
もしかしたら、その十国の風景は、それから遠くない未来に見たであろう景色と既にオーバーラップしていたのか。その後、小田原まで歩いて降りてきたのが、最後の山行となったそうだ。

この時代の変化に巻き込まれた筆者は、まさに19歳の19年9月に、召集令状を受け取り出征してから、23年5月に復員するまでの3年8ヶ月は、満州に始まり、終戦、その後のシベリアでの抑留と酷寒と飢餓の強制労働の苦難へとつづいていく。

叔父もシベリア帰りだったが、子どもだった私が叔父から抑留生活の話を直接聞く機会はなかった。

(つづく)


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