スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

 続 「ウスリー草原のヤポンスキー」

2013年12月14日


名前の由来って

1980年夏の甲子園で大フィーバーとなったのが、早実の荒木大輔、その9月に生まれ、荒木のように甲子園で活躍するようにと命名されたのが松坂大輔だそうで、「大輔」はその年の新生男児の名前第1位だったのは有名な話。

また、最近の子どもたちの名前は昭和の人間にとっては、想像の範囲を遥かに越えている。
名前に使える漢字には制限があることは名前をつけた立場でもあるから知ってはいるが、今のような使い方まで考えも及ばなかった。
流行の名前は「キラキラネーム」とか呼ばれ、まず読めないものが多い。
ちなみに去年の男と子の第1位は「大翔」で、読み方だけでも、ひろと、たいが、はると、やまと、たいぞう、つばさ、
女の子の名前では、「結愛」で、ゆめ、ゆうめ、ゆいな、ゆい、ゆら、
続くは、宝冠(てぃあら)、「希空(のあ)」・・・

ほう!と感心するが、う〜ん、普通に読めない(汗)。ひらがななら「音」もあるだろうが、漢字となる・・・
いずれにしても、読めない名前は学校の先生に限らず、いろいろなところで苦労するのだろうと思う。

さて、周りの人に聞いてみたところ、ほとんどの人が「親から聞かされた」「親に聞いた」という。「住職につけてもらった」とか、「画数で決めた」、「響きが好きで名前には是非使いたかった」、「漢字の持つ意味を重んじた」とか、いろいろだった。
「素敵な名前ね」とか「いい名前だ」と言ったり、言われても、「名前の由来は?」とは、あまり聞く事はなかったが、最近は、幼稚園や小学校などで、自分の名前の由来を紹介する授業などもあるようで、あと付けで意味や由来を作った親も中にはいるようである。

私の母方の従兄弟は、なぜか私の母が名付け親とか??そうなった理由と名前の由来や想いは、今となっては知る由もないが、三人の従兄弟の名は、それぞれの性格と生き方を見ていると「合っている!」と思う。


さて、いつもの事ながら、また前振りが長くなってしまった。

あえて「続」と付けて「ウスリー草原のヤポンスキー」の続きを書くのは、この本の巻頭の「あいさつ」に「浦子」とある筆者の娘さんの名前の由来にある。

疲弊した軍隊生活、戦場、そして終戦の後も2年以上にわたる酷寒の地シベリアでの、飢餓と過酷な強制労働、友の死を目の当たりにしながら耐えて、生きて、そして復員できたとはいえ、決してよい経験、思い出とは言えないはずなのに、この本を読んでいると、なぜかあたたかな気持ちになる。

それは、戦争の悲惨さ、抑留生活の厳しさ、理不尽さを伝えるだけでなく、人の強さと温かさに支えられたことが、その後復学し、教育者としての道を選んだ筆者の中で、悲惨な体験もいつしか昇華し、未来への期待となって書き込まれていたからであろう。

そして、それは、筆者が長女の名前に込めた三つの思いにも表れている。
文学青年であった筆者の好きだったのであろう萩原朔太郎の詩に出てくる「浦」という名の女性、海に面した尾鷲で生まれた子、そして最後にロシアの言葉で「すばらしい」と感嘆を意味する「ウラー」をあわせて「浦子」と名付けた、とある。

聞かなければわからない名前の由来、親の子に対する思いの一端を覗かせていただいたようで嬉しく思った。
とても、幸せで素敵な名前だと思います。


<一部引用> 「ウスリー草原のヤポンスキー」 中岡準治著 文芸社 2000年

伊達じゃないよ、本の「帯」

テーマ : 最近読んだ本 - ジャンル : 本・雑誌

「ウスリー草原のヤポンスキー」

2013年11月28日


ウスリー草原のヤポンスキー文芸社(2000年)

今年は学徒出陣70周年だそうだ。
昭和18年秋、ついに始まった学生の戦場派兵。所謂学徒動員である。5万とも10万とも言われるが出陣学徒と戦死者についての定かな記録は残っていないらしく、NHKの調査に対して、今後も調査は不可能として対応しない大学が50%とか。

そんなことからたどり着いたのがこの一冊。
ウスリー草原のヤポンスキー
早速Amazonから新品を取り寄せたが、最近本格稼働した小田原FCからではなかった。

さて、この本は、昭和17年4月に法政大学予科に入学し、まだ物心ともにゆとりがあり、まだまだ田んぼもあった東京での当時の下宿生活の様子から始まるが、18年1月のニューギニア全滅、悲惨なガダルカナル撤退から戦況は急速に悪化していった。
そんな18年秋に始まった学徒動員であるが、当時の徴兵適齢は20歳からであった。そして19年には、「戦時繰り上げ」と称して半年早く予科から学部へと進学することができたそうだ。その一方で、前年(18年)12月には、既に徴兵の適格年齢も19歳に下げられていたと・・・。

そんな状況が次第に見えてきた19年の晩春、筆者は友と箱根の十国峠に旅し、「縹渺(ひょうびょう)とした十国の山」と表する山の眺めは、
暖かく陽のなかで低い笹で覆われ、緩やかな曲線の稜線がつづく綺麗な山々を見たのか、陽がないときは、笹だけを押し付ける冷たい風が吹き抜ける荒涼とした景色だったのか・・・
もしかしたら、その十国の風景は、それから遠くない未来に見たであろう景色と既にオーバーラップしていたのか。その後、小田原まで歩いて降りてきたのが、最後の山行となったそうだ。

この時代の変化に巻き込まれた筆者は、まさに19歳の19年9月に、召集令状を受け取り出征してから、23年5月に復員するまでの3年8ヶ月は、満州に始まり、終戦、その後のシベリアでの抑留と酷寒と飢餓の強制労働の苦難へとつづいていく。

叔父もシベリア帰りだったが、子どもだった私が叔父から抑留生活の話を直接聞く機会はなかった。

(つづく)


「風魔山嶽党」

2013年9月8日


忍者の里「風魔まつり」 9月15日


ここ数年、やけに忍者づいて、ここ小田原では「風魔」「忍者」「風魔」「忍者」と聞こえてくる。

国取りゲーム?なるものの流行か?

小田原城の本丸に続く常磐木門がロケ地としてよく使われていた「隠密剣士」なる白黒のテレビ時代劇を知る人には甲賀の霧の遁兵衛(とんべえ)。
また、忍者といえば、服部半蔵、猿飛佐助、霧隠才蔵、伊賀の影丸、忍者ハットリ君、水戸黄門の風車の弥七、くのいちといえば由美かおるであろう(笑)、失礼、役名が出てこない。
甲賀、伊賀は有名どころだが、根来衆や風魔党が時として出ていたが、メジャーにはならなかった。しかし、その「風魔」こそ小田原北条氏に仕えた草である。

風呂敷は子どもの忍者衣装に欠かせないひとつだった。その時代の子どもは何らかの形で「刀」と呼べるものをもっていたな。
逆回転はできなかったので、前向きのまま壁に飛び上がることはできなかったが、風呂敷の覆面に、背中に刀をしょってブロック塀やお宮の屋根から飛び降りて遊んだ。
いわゆる、チャンバラは、善悪よりも、剣士と忍者の戦いだったかもしれない。
そうそう、土遁(どとん)の術とか、竹の筒で水遁の術の練習をしたな。釘やワッシャーで手裏剣を作って的に当てて楽しんだ。
※ご安心ください。その頃の子どもはそれを人に投げたら怪我をすることくらい知っていましたから。


さて、前置きがいつものように長くてすみません。
ここからが本題です。

風魔山嶽党単行本
夏休みの宿題で最も苦手だったのが読書感想文。よって、ここでも当然、感想や書評を書こうなんてこれっぽっちも考えていないが、風魔忍者を取り上げた本を紹介だけする。
10年以上前、週刊文春で連載されていた風魔者の小説があった。小田原でもあまり話題になっていなかった風魔が題材だったので、毎週楽しみにしていたのを思い出し、ググって検索して入手した。

タイトルにある風魔山嶽党がそれで、筆者はなんと直木賞作家の高橋義夫氏であったことを改めて発見した。
文春文庫 2000年の最新刊の紹介には「小田原・北条家に仕える草の者・風祭小次郎の八面六臂の大活躍。痛快無比怪傑冒険活劇」とある。
風魔といえば、風魔小太郎だが、この小説では若い忍者・風祭小次郎が主役であるが、この「風祭」こそ忍者(風魔)の里といわれる地名である。


忍者・風魔に興味を持った人には、伊賀忍者団を描いた忍びの国(新潮文庫)を先に読むことをお勧めする。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原攻めの際、あの石田三成が挑んだ埼玉の忍城の攻防を描いた「のぼうの城」の著者である和田竜氏の作品でもある。

風魔は代々小太郎を党首の名としていた。六代目風魔小太郎も決まるとか・・・
9月15日 忍者の里「風魔まつり」のチラシはこちら
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。